I is for Insane

統合失調症患者が綴る雑記

カント「純粋理性批判」第4回 自由と道徳を基礎づける


これまでの哲学は「究極の真理」を追究してきた。それに対し、カントは「究極の生き方」を追究した。そこで重要になるのが「理性」である。


実践理性: 究極の道徳的世界を思い描き、それにふさわしい最高の生き方を命じる。


・「〜だから〜する(お腹が空いたから食べるなど)」という生き方、生理的欲求に従う生き方は因果律に束縛された状態である。カントは、自由意志によってそういった欲望を抑えることこそが「自由な生き方」であり、自分の成長や他人への貢献を目的とした生き方を「道徳的」であるとした。つまり、道徳的に生きることが自由であり、なおかつ最高の生き方である。


・権威や伝統が定めた正しさを無批判に受け容れることに道徳的価値はない。本能に従うことも、社会通念やその場のルールにただ従うことも無価値である。


・カントの考えによると「物自体」は「叡智界」に存在し、「現象」は「現象界」に存在する。叡智界には自由が存在するが、現象界は因果律に支配されており、自由は存在しない。


・犯罪者を「認識の客体」として見ると「現象界」に属し、「行為主体」として見ると「叡智界」に属する。前者の見方では、全ての事象が因果律に支配されているためその犯罪者に責任は無い。これは、罪を犯す自由自体が無いため。一方、後者の見方では罪を犯す自由があるため、罪を犯さない自由もあったはずだと考える。その結果として罪を犯したなら、罪に対する責任は問える。


・人間は「感性(欲望)」と「理性(道徳)」の「二重性」を持っている。(※この「感性」と「理性」は認識に対する用語とは違い、それぞれ「欲望」と「道徳」に対応する)。


・「かわいそうだから助ける」ことと「この人の今後を考えて助ける」ことでは、結果としては同じでも道徳的な観点から見ると意味合いが異なる。


・大前提となっているのは、人間一人ひとりが自由意志を持つかけがえのない存在であって、対等な存在であるということ。


「汝の意志の採用するルール(格率)がつねに同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ」(意訳: 自分の従うべきルールを考える時、そのルールは独りよがりなものか、それとも道徳的世界の法として皆に採用されるものか判断しなさい)


・カントの生きた時代背景としてフランス革命(1789年)があり、自由や人間の尊厳を巡って大きな変革が巻き起ころうとしていた。


・ちなみに、後世のニーチェはカントを痛烈に批判した。


☆簡単なまとめ


・カントは新たな哲学として「人間の生き方」にフォーカスした。因果律ではなく自由意志によって選択された道徳的な生き方にこそ価値があり、自分にとっての幸福が他人にとっても幸福であるような生き方をせよと説いた。

 

 


個人的な感想など


・妄想と恣意的な定義のオンパレード。ニーチェが「カントはどうかしてる」と批判したのも頷ける。当時としては画期的だったのかもしれないが、この程度の思想を未だに偉大だと見なすのは哲学の停滞だろう。


・なぜ「物自体は何者も知り得ない」ということをカントは知り得たのか?「現象」という概念の定義は明らかに恣意的で、本当にそういう仕組みになっているのか確かめようがない。その他の概念についても同じことが言える。


アンチノミーによって「答えの出る問い」と「答えの出ない問い」を篩い分けようとしたのはなかなか良さげ。しかし、少なくとも「宇宙に始まりはあるか?」という命題についての展開は疑問。カントは「宇宙に始まりがあるとすると、その始まりの前には時間が流れていないことになる。」としているが、これは「宇宙の始まり」と「時間の始まり」を混同しているのではないか。もし、この二つが同一ではないとすると宇宙に始まりがあると仮定しても何ら問題はない。


・カントの想定する「道徳」については賛同できる部分もある。ただ、「価値」に対する考え方があまりにも浅薄で「俺様の定義する価値観が一番だからお前ら従えよ」と言っているだけ。生理的欲求に従ってるだけのように見える動物のほうが環境も汚さず無駄な殺生もしていないわけで。同じ動物の中でも人間は特別だと言うのはキリスト教徒と同レベル。


・カント的な思想が権威となってしまった現代において、真っ当な人間の生きる場所は無い。