I is for Insane

統合失調症患者が綴る雑記

植松聖の発言について

「障害者が人間ならば、彼らが罪を犯した時同様に裁かれるはず」

→その通り。


「知的障害を理由に裁かれないという事実は、彼らが人間ではないことを証明している」

→どんな障害者であっても罪を犯したなら裁かれて然るべきで、障害を理由に裁きを免れる現在の状況が間違っているだけ。どれほど健常者との隔たりがあるとしても、知的障害者は人間である。


「氏名が公表されず遺影もない追悼式は、彼らが人間として扱われていない証拠と考えております」

→文末の「…と考えております」からわかるように、単なる個人的見解。


「私は介護施設で、数年間現場で働いてきた。」

→そうなんですね。


「彼らが家族や周囲に与える苦しみ、そして使われる膨大な費用、職員が置かれている過酷な労働環境を見てきた。」 

→それは大変だ、うんうん。


「あなた方はなぜ、施設に足を運んだことすら無いのに、理想論をさも正論のように述べることができるのか。」 

→おそらく、施設に足を運んだことが無いからだろう。現場の声を聞かず理想論を振りかざすおエライさんなんて珍しくない気はするぞ。


「あなた方は一度でも介護に携わったことがあるか?少しでも現場を知れば、介護は綺麗事だけでは無いことがわかるはずだ。」

→その通りだと思う。

 

 

以下、駄文。


彼の犯した罪については裁かれて然るべきではあるが、障害者と障害者を擁護する者に対する植松聖の怒りにはある程度共感を覚える。何の価値ももたらさないどころか有害でしかない存在がいるとすれば、排除したいと考えるのは至極当然だからだ。


ただし、ここで言う「価値」とは経済的価値に限らない。「誰かの役に立ちたい」という願いを叶える対象として障害者が必要とされる場合もあるだろうし、空虚で欺瞞に満ちた理想論を語るためだけに障害者を利用する場合もあるだろう。愛情深い母親にとっては、生きていてくれるだけでいいと感じさせる障害者だっているのかもしれない。


要するに、問題はマッチングなのだ。障害者に上記のような広い意味での価値を見いだせない者が障害者福祉に携わるとしたら、両者にとって不幸な結果をもたらす蓋然性は高い。


植松聖の怒りはある程度ごもっともではあるし、彼のような価値観を持つ人々は大勢いるとも思う。


もし障害者を排除したいなら、そうすればいい。でもまあ、障害者ってのは概念なわけで、地球上から全ての障害者を排除したとしても新たな障害者は生まれてくる。その全てを排除できるかどうか。それは、健常者の情熱にかかっている。