I is for Insane

統合失調症患者が綴る雑記

ふるさと

うだうだ考えごとしてて突然、あ、と気づく。LINEで繋がってる人、連絡先に登録されてる人、みんな人間じゃん。いいないいな人間っていいな。たまたま人間っぽい見た目だったから人間っぽく扱われてきたけど、そういえばワガハイは人間じゃなかったのだ。実は角と尻尾が生えてるのだよ。フハハハ。


いままで悪いことばっかりしてきた。まるで自分が人間かのように演技したりして。ごめんなさい。


早いとこ地獄に帰らなきゃ。

メンタリストDaiGoに足りないもの、それは実行力

まあ、結局のところインテリ風お笑い芸人ってのは「自分に従え」って発言するのが精一杯なんだな、と改めて感じましたわ。その従うべき理由はいくらでもつらつら出てくるのに、着地点がそこ以外ないんだから笑っちゃうよね。「〇〇なんて死んだほうがいいよな?でも、俺は殺さないから誰か殺してね」ってゆーさ。


何事も他力本願では限界があるのは明白なので、本物のインテリなら言動一致していてほしいものです。せいぜい頑張れよ。

カント「純粋理性批判」第4回 自由と道徳を基礎づける


これまでの哲学は「究極の真理」を追究してきた。それに対し、カントは「究極の生き方」を追究した。そこで重要になるのが「理性」である。


実践理性: 究極の道徳的世界を思い描き、それにふさわしい最高の生き方を命じる。


・「〜だから〜する(お腹が空いたから食べるなど)」という生き方、生理的欲求に従う生き方は因果律に束縛された状態である。カントは、自由意志によってそういった欲望を抑えることこそが「自由な生き方」であり、自分の成長や他人への貢献を目的とした生き方を「道徳的」であるとした。つまり、道徳的に生きることが自由であり、なおかつ最高の生き方である。


・権威や伝統が定めた正しさを無批判に受け容れることに道徳的価値はない。本能に従うことも、社会通念やその場のルールにただ従うことも無価値である。


・カントの考えによると「物自体」は「叡智界」に存在し、「現象」は「現象界」に存在する。叡智界には自由が存在するが、現象界は因果律に支配されており、自由は存在しない。


・犯罪者を「認識の客体」として見ると「現象界」に属し、「行為主体」として見ると「叡智界」に属する。前者の見方では、全ての事象が因果律に支配されているためその犯罪者に責任は無い。これは、罪を犯す自由自体が無いため。一方、後者の見方では罪を犯す自由があるため、罪を犯さない自由もあったはずだと考える。その結果として罪を犯したなら、罪に対する責任は問える。


・人間は「感性(欲望)」と「理性(道徳)」の「二重性」を持っている。(※この「感性」と「理性」は認識に対する用語とは違い、それぞれ「欲望」と「道徳」に対応する)。


・「かわいそうだから助ける」ことと「この人の今後を考えて助ける」ことでは、結果としては同じでも道徳的な観点から見ると意味合いが異なる。


・大前提となっているのは、人間一人ひとりが自由意志を持つかけがえのない存在であって、対等な存在であるということ。


「汝の意志の採用するルール(格率)がつねに同時に普遍的立法の原理としても妥当するように行動せよ」(意訳: 自分の従うべきルールを考える時、そのルールは独りよがりなものか、それとも道徳的世界の法として皆に採用されるものか判断しなさい)


・カントの生きた時代背景としてフランス革命(1789年)があり、自由や人間の尊厳を巡って大きな変革が巻き起ころうとしていた。


・ちなみに、後世のニーチェはカントを痛烈に批判した。


☆簡単なまとめ


・カントは新たな哲学として「人間の生き方」にフォーカスした。因果律ではなく自由意志によって選択された道徳的な生き方にこそ価値があり、自分にとっての幸福が他人にとっても幸福であるような生き方をせよと説いた。

 

 


個人的な感想など


・妄想と恣意的な定義のオンパレード。ニーチェが「カントはどうかしてる」と批判したのも頷ける。当時としては画期的だったのかもしれないが、この程度の思想を未だに偉大だと見なすのは哲学の停滞だろう。


・なぜ「物自体は何者も知り得ない」ということをカントは知り得たのか?「現象」という概念の定義は明らかに恣意的で、本当にそういう仕組みになっているのか確かめようがない。その他の概念についても同じことが言える。


アンチノミーによって「答えの出る問い」と「答えの出ない問い」を篩い分けようとしたのはなかなか良さげ。しかし、少なくとも「宇宙に始まりはあるか?」という命題についての展開は疑問。カントは「宇宙に始まりがあるとすると、その始まりの前には時間が流れていないことになる。」としているが、これは「宇宙の始まり」と「時間の始まり」を混同しているのではないか。もし、この二つが同一ではないとすると宇宙に始まりがあると仮定しても何ら問題はない。


・カントの想定する「道徳」については賛同できる部分もある。ただ、「価値」に対する考え方があまりにも浅薄で「俺様の定義する価値観が一番だからお前ら従えよ」と言っているだけ。生理的欲求に従ってるだけのように見える動物のほうが環境も汚さず無駄な殺生もしていないわけで。同じ動物の中でも人間は特別だと言うのはキリスト教徒と同レベル。


・カント的な思想が権威となってしまった現代において、真っ当な人間の生きる場所は無い。

カント「純粋理性批判」第3回 宇宙は無限か、有限か

 

・人間は何を知り得ないのか?

 


「理性」とは、推論する能力のこと。

 


どうして夜になると暗いのか?

→太陽が沈むから

どうして太陽は沈むのか?

→地球が廻るから

どうして地球は廻るのか?…

 


こうして疑問は果てしなく続く。この疑問の連鎖こそが「理性」の本性であり、これによって人間は「答えの出ない問い」を考え続けてしまう。不死なる魂はあるか?宇宙は無限か?有限か?神は存在するのか?自由意志はあるか?など。

 


カントは、「答えの出る問い(共通理解の出来る問い)」の条件を「時間・空間の枠組みに入っていること」だと考えた。ということは、「答えの出ない問い」とはその条件から外れる問いということになる。そして、それまでの哲学者が考えてきた問いを「アンチノミー(対立する二つの命題が共に証明できてしまうため、どちらが正しいのかわからない状態)」を用いて「答えの出ない問い」だと結論づけた。

 


4つのアンチノミー

 


宇宙は無限か?有限か?
物質の最終要素は存在するか?
自由の原因性はあるか?
無条件で必然的な存在者はいるか?

 

1.は空間と時間の無限性について。

2.は最小の物質について。

3.は自由意志について。

4.は神の存在について。

 

 

 

問い: 宇宙には始まりがあるか?

 


a. 始まりがないと仮定する

宇宙に始まりがないとすると、永遠に現在は来ないことになる。すなわち、宇宙に始まりはある。

 


b. 始まりがあると仮定する

宇宙に始まりがあるとすると、その始まりの前には時間が流れていないことになる。となると、その時点から何も起きないはず。すなわち、宇宙に始まりはない。

 

 

 

どちらの説も正しく思えるならばこれはアンチノミーであり、実のところ答えは出ない。

 

 

 

理性の関心

 


完全性を求める/正しい答えを「全て」把握したい
真理を追究する/全ての答えが「本当に正しいか」把握したい

 

カントによると、有限説は完全性を求める理性に由来し、無限説は真理を追究する理性に由来する。

 


カントは、それまでの哲学が取り上げてきたテーマを「答えの出ない問い」として棄却した。そして、哲学が本当に追究すべきテーマとはなにか?とカントは考える。

 

 

 

☆簡単なまとめ

 


・カントは、それまでの哲学における問いを「アンチノミー」によって「答えの出ない問いである」と結論づけた。

・こうした「答えの出ない問い」は「理性」によって形成される。

カント「純粋理性批判」第2回 科学の知は、なぜ共有できるのか


・なぜ自然科学や数学は「誰もが共有できる」知識なのか?

 


・カントはもともと大陸合理論の立場だったが、ヒュームのイギリス経験論に多大な影響を受けた。

 


・ヒュームによると「Aの後にBが起こる」という認識は正しいものの、「AゆえにBが起こる」という認識は誤りの可能性がある。前者を経験し続けた結果として、後者の認識に捉われてしまったのだという。(物事の順序と因果を混同するな、ということ)

 


・カントはヒュームの影響を受け、「人間は主観の外に出て世界を認識することはできない」と認めた。そして、「主観には認識を作る際の共通規格があり、客観性を確保できる」という考えに至る。つまり、大陸合理論とイギリス経験論を止揚した。

 


・カントはその客観性を確保できる共通規格を「ア・プリオリ(先天的でどのような状況下でも成り立つの意)な総合判断」と呼んだ。

 


・カントによると、人間が物事を認識する時の判断は

分析判断: 主語の中にもともと含まれているものを述語に取り出した判断。確実に誰もが共有できるが、知識は増えない。例: 富士山は山である。
経験的総合判断: 実際に調べることによって新たな情報を主語に加えた判断。知識は増えるが、経験が積み重なることでデータが変わり確実性は担保されない)例: 富士山は3776mである。
ア・プリオリな総合判断: 経験せずとも誰もが共有できる判断。

 

ア・プリオリな総合判断の例

・二つの点を通る直線は一本しか引けない。この公理は幾何学の土台となる。

因果律(あらゆる変化には必ず原因があり、偶然に物事が生じることはない)は誰にも共通する思考パターンで、これによって人間は自然法則を導き出してきた。そのため、自然科学は共有し得る知識になる。

(※個人的には、この因果律について疑義があって然るべきだと思う。)

 


ア・プリオリな総合判断は「感性」と「悟性」の相互作用によって形成。

 


・「感性」は、「空間と時間」という枠組みで物事を整理して直観を作る。

 


・「悟性」は、「12のカテゴリー」という枠組みで物事を整理して判断を作る(カテゴリーとは物事を考える時の基本パターン)。

 


12のカテゴリー

量: 単一性、数多性、総体性

質: 実在性、否定性、制限性

関係: 実体と属性、原因と結果、相互作用

様相: 可能・不可能、現存在・非存在、必然性・偶然性

 

 

 

☆簡単なまとめ

 


・前節での「他人と共有できる認識」とは、「ア・プリオリな総合判断」のこと。これは経験の有無に関わらず、誰もが共有できる判断である。

・「ア・プリオリな総合判断」は、「感性」と「悟性」の相互作用によって形成される。

・「感性」は、空間と時間という枠組みの中で物事を整理する。

・「悟性」は、12のカテゴリーという枠組みの中で物事を整理する。

・「ア・プリオリな総合判断」によって、数学や自然科学に関する知識を誰もが共有できる。

カント「純粋理性批判」 第1回 近代哲学の二大難問

近代哲学の二大難問その1

「すべての物体が因果法則で決定されているならば人間もこの法則に縛られ自由がないのではないか?」(物心問題)


近代哲学の二大難問その2

「私が認識したことは本当に客観的な世界と一致しているのか?」(主観客観一致の問題)


※中世ヨーロッパはキリスト教中心の世界だったが、自然科学の発達によって世界に対する人々の認識が変化してきた。そこでこうした問題が生まれ、これらに対しての考え方として生まれたのが「イギリス経験論」と「大陸合理論」。


イギリス経験論

「人間は主観的に経験したものをゼロから積み上げなければ認識を作れない」

※この立場では人間は主観の外には出られないため、自然科学の客観性をも疑わなければならなくなる。


大陸合理論

「人間には合理的に物事の真理を捉える知的能力が先天的に備わっており、それによって認識が作られる」

※この立場では批判に対して反論する余地がない。

 

 

 

純粋理性批判の内容


・あらゆる客観的な事物は「物自体」である。「物自体」の正確な姿は何者も知り得ない。


・「現象」とは、「物自体」が人間の感覚器官を刺激して現れたもの。人間が「物自体」を解釈した結果。


・「客観性」とは、他人と共有できる認識という意味。


・「物自体」をどうにかして知るという方向性は捨て、「現象」という枠組みの中で他人と共有できる「客観性(他人と共有できる認識)」が作れないか?とカントは考えた。


・「どんな人間も同じ共通規格を持っている」と仮定すれば、「客観性」は存在することになる。その共通規格にあたるのが、「認識能力」。「認識能力」は五感の感覚を受け取る第一層「感性」と第二層「悟性」から成る。


・「物自体」が感覚器官を刺激すると、感性はそれを受容し、ある像を形成する。これが「直観」。人間が「物自体」を解釈する能力のこと。直観は感覚的である。


・みずから観念や判断を作り出す能力、認識の自発性が「悟性」。例えば、「AはBである」というような認識。悟性は、直観が捉えた像を思考する能力。


・感性と悟性は相互補完的に作用し、ある認識が生まれる。


・「他人と共有できる認識(客観性)は何か」とそれぞれの心の中に探っていく。「絶対の正義」は無い、とカントは考える(はず)。

 

 


☆簡単なまとめ


まず「物自体」が存在する。
その「物自体」が人間の感覚器官を刺激することで「感性」と「悟性」がそれを受容し、ある像を形成する。
その結果として現れるのが「現象」。この「現象」は「物自体」と同定できない。
しかし、この「現象」という枠組みの中で他人と共有できる認識が作れるのではないかとカントは考えた。

経済学的にFaceb○okはどういう存在なのだろうか

 

莫大なお金を生み出す世界最大のゴミ情報サイト、Faceb○ok。Faceb○ok上の情報が1ビットの例外もなく全てゴミであるとしても、とてつもない売り上げがあるのは事実だ。


これをどう考えたらいいのだろうか。Faceb○ok上の「情報の価値」とそれによって生み出される「お金の価値」は別だと捉えれば、理解できるような気はする。ゴミでもお金を生むならそれで良いじゃないか、という立場。つまり、拝金主義だ。まさにこれこそが経済学に関して感じる嫌悪感の本丸である。


もちろん、ここで言う「嫌悪感」とは私がそう感じているだけであって、拝金主義を尊ぶ人間は多いのかもしれない。他者の価値観を愚弄してはいけない、と憤る人の気持ちもある程度はわかる。


ただ、敢えて言うとゴミを生産して儲けている奴らにはヘドが出る。言うまでもなく、これはFaceb○ok以外の企業にも該当するわけです。不潔。


で、個人的に大問題なのがその「ゴミ」に相当するものが世の中に多すぎることなんだよな。自分自身でさえゴミなんだから手に負えない。よくないね! 👎