他人と比較して苦しいぜ問題について
上を見ても下を見てもキリがない。自分より幸せそうに見える人、自分より恵まれていないように見える人、どちらもいる。それなのに、自分より下に見える存在を見て見ぬフリしてるんだよな。どんな人間であれ、幸福が生涯続くなんてあり得ないし、苦しい現状が全く変わらないはずもない。”ランキング”は常に変動してる。
たぶん、自分の敵は他人ではなく自分自身なんだろう。他人からは離れられても自分からは絶対に離れられない。バカで、醜くて、冷酷で、矛盾だらけの自分から。親しくしてくれる友だちやパートナーに受け容れてもらうことで自分をごまかしてるとさえ思える。
まあ、いつだって難問が立ちはだかった時はそれを解決しようと「考えて」きた。だけど、考え続けても埒が開かない気もする。頭でっかちなんだな。別に考えること以外に選択肢が無いわけでもないんだから、認知を変えるだの受け容れるだの難しいこと言わずに音楽でも聴いてりゃいいのかも。筋トレやらおピアノもよろしくてよ。
むしろ、もっと苦しみ抜けばこれっぽっちの苦しみなんてなんともないわーとかあり得る。苦しみを克服するために苦しむなんて逆説的でおもろくないですか?
しかし、ここまで脈絡の無い文章を書けるとは我ながら素晴らしいなこりゃ。思考を統合する機能が失調した感じする。
バカなんだ俺は
いまのところ、ウクライナ侵攻の件で自分の考えと同じことを言ってる人を一人も見たことがない。猫も杓子もご自身のお考えを開陳なさっているのに、なんでなんだろうか。
プーチンが悪人なのか、俺にはわからない。ただ、もし彼が悪の親玉であったとしても、一人では何もできないだろう。プーチンの指令に従う兵士たちがいるから戦争が現実のものになったわけで、要するに指令の末端にいる彼ら兵士こそが戦争における悪の正体だ。アメリカだろうが北朝鮮だろうが同じことが言えるし、かつての日本軍も同じ。仮に俺が軍隊に徴用されたとしても、命令に背いて殺されたほうが無駄な殺生をしないで済むと考えて行動するだろう。どちらにしろ、命の危険はあるのだから。
まあ、バカはバカなりに自分の考えがあり、誰かに理解してほしい気持ちもある。でも、絶望的なレベルで他人の考え方と噛み合わない。共有された理想の下に一致団結するなんてあり得ない話だ。きっと俺が間違ってる。
なんで俺はこんなにバカなんだろう。なにせバカだから、いくら考えてもわからないのかもしれない。いままでもずっとそうだったし、そんな自分が嫌で嫌でたまらない。幾度となく再確認した「答え」を選択するより他にないんじゃないか。
幸せであれ
私の死体はまるで生きているかのように動き、話した。そして、通り過ぎていく生者たちをただ見送る。幸せであるように、つらい思いをしないように。
神でも仏でもない何者かに祈る。
表現の自由
表現の自由を守ろうと言うヒトがいる。その一方で、不快な表現は許容すべきではないというヒトもいる。
表現の自由が公権力によって規制されたとしよう。誰がわざわざリスクを犯して罰せられるような行為をするのか?そりゃリスクとリターンを天秤にかけて、リターンが大きい(と思われる)ほうを選ぶのがヒトだろう。つまり、表現するほうが選ばれたとしても不思議ではない。
まあ、いままでの表現者は全員ではないにしろそうやって表現してきたんじゃないかと。つーわけで、表現の自由なんて守らなければならないとかいう類いのものではないんですよ。ヒトは自由である以外の在り方ができないので、たとえどんな厳罰を課せられようとも表現したければするよ。これ、殺人だって同じことよね。
私たちは自由であるべく呪われている、ってわけさ。この社会は平等でも公平でも公正でもない。だけど、この呪いだけは確かに存在する。
安吾日和
別れました。好きだと言うこともエネルギーが要るけれども、嫌いだと言うことのほうが俺はキツい。だからこそ、ズルズル付き合ってきたわけですが。
もう気持ちは無いし、未練も無い。別れたほうがお互いのためだという確信は今も揺るがない。それでも、彼女を傷つけたという事実にどうしようもない罪悪感が付きまとう。今ごろマッチングアプリでも使ってくれてるなら、こっちも楽になれるが。はー、つら。
“恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。”
“人生は由来、あんまり円満多幸なものではない。愛する人は愛してくれず、欲しいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口をひろげて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。”
“孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。”